

日野は、女性中心の職場にあって数少ない男性であるからには、組織の中でチームワークを重んじ、チームに貢献でき、強いリーダーシップを持った、バイタリティ溢れた若者が必須条件であると信じていた。ならば、運動部で心身ともに鍛えこまれた人物となるが、個人競技ではなく団体競技の経験が大きな条件であった。日野が監督をしている久留米大学(当時は九州学生Aリーグ所属)卒業生の中で日野を慕い4名の部員がゆうかり学園に就職してきました。(うち1名は独立して保育園を経営することになる)
同時期の昭和48年日野の長男博愛(現理事長、明治大学OB)が九州社会人ラグビー「ヤナセ」から呼び戻され新設された耳納学園に配属された。これをきっかけに同年4月に開催された「全九州七人制ラグビー大会」に出場(助っ人あり)することになりました。この時の助っ人の一人が東京で某商社勤務の次男康英(早稲田大学OB)であった。
翌年、昭和49年は7月に久留米市上津町から施設老朽化のため田主丸町へ移転し、重症心身障害児施設を新設した年で、3月に次男康英ゆうかり学園へ転職した。7人制大会へは助っ人含めて51年大会までの成績は1回戦敗退の記憶しかありません。博愛、康英はラグビーとの関わりだけは継続し、久留米大学ラグビー部のコーチとして、選手たちと一緒に走り楕円の球を追い続けていました。
施設の拡充に伴い職員採用枠を増やすことになり、昭和51年4月1日より第1回生として福岡大学(姫野、橋口)、福岡工業大学(石原)、久留米大学(吉永)の4名が加わることになりました。そして冒頭の写真の初の15人のフルラグビー初試合を行いました。スコアは残っていませんが間違いなく勝利いたしました。更に翌52年春、福岡大学(上原)、福岡工業大学(今藤、坂口)が加入したことで正式に「ゆうかり学園」として協会へ加入いたしました。
更に福岡工業大学OBの園上も某企業チームから転職することになりチーム強化が本格化することになりました。














