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         vs.隣友クラブ
 嘗て旧浮羽郡田主丸町(現在の久留米市田主丸町)にラグビー西日本社会人リーグに所属し、短い活動期間であったがラグビー界に大きな旋風を巻き起こしたチームがありました。
 オールドラグビーファンの記憶には残っていても、ほとんど忘れ去られようとしている今だから、チーム創設期から廃部に至るまでの記録を残したいと筆をとることにしました。思い出しながらぼちぼち追加更新していきます。(日野康英)

 何故?福祉施設にラグビー部が存在したのか?しかもかなり強いチームであった。
・創設者 日野記典が大学時代にラグビーをやっていた。
昭和30年頃から40年代に日野が監督をしていた久留米大学ラグビー部から3名の職員が在籍していました。当時のゆうかり学園は70名くらいの職員中に男性は医師を含めても10名ほどでしたが、施設を拡充していく過程で将来の幹部候補生として有能な男性職員が必要と考えていました。

日野は、女性中心の職場にあって数少ない男性であるからには、組織の中でチームワークを重んじ、チームに貢献でき、強いリーダーシップを持った、バイタリティ溢れた若者が必須条件であると信じていた。ならば、運動部で心身ともに鍛えこまれた人物となるが、個人競技ではなく団体競技の経験が大きな条件であった。日野が監督をしている久留米大学(当時は九州学生Aリーグ所属)卒業生の中で日野を慕い4名の部員がゆうかり学園に就職してきました。(うち1名は独立して保育園を経営することになる)

同時期の昭和48年日野の長男博愛(現理事長、明治大学OB)が九州社会人ラグビー「ヤナセ」から呼び戻され新設された耳納学園に配属された。これをきっかけに同年4月に開催された「全九州七人制ラグビー大会」に出場(助っ人あり)することになりました。この時の助っ人の一人が東京で某商社勤務の次男康英(早稲田大学OB)であった。

翌年、昭和49年は7月に久留米市上津町から施設老朽化のため田主丸町へ移転し、重症心身障害児施設を新設した年で、3月に次男康英ゆうかり学園へ転職した。7人制大会へは助っ人含めて51年大会までの成績は1回戦敗退の記憶しかありません。博愛、康英はラグビーとの関わりだけは継続し、久留米大学ラグビー部のコーチとして、選手たちと一緒に走り楕円の球を追い続けていました。

施設の拡充に伴い職員採用枠を増やすことになり、昭和51年4月1日より第1回生として福岡大学(姫野、橋口)、福岡工業大学(石原)、久留米大学(吉永)の4名が加わることになりました。そして冒頭の写真の初の15人のフルラグビー初試合を行いました。スコアは残っていませんが間違いなく勝利いたしました。更に翌52年春、福岡大学(上原)、福岡工業大学(今藤、坂口)が加入したことで正式に「ゆうかり学園」として協会へ加入いたしました。

更に福岡工業大学OBの園上も某企業チームから転職することになりチーム強化が本格化することになりました。


続きはお楽しみに!
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